ここで、当時の日本製プリズム搭載の一眼レフカメラの情況を見てみましょう。最初に登場したのが55年のミランダTで、ミランダはこの後、矢継ぎ早にA/B/C/Sとマイナーチェンジを繰り返していました。35mm一眼レフのパイオニアだった旭光学は、ペンタプリズムを搭載したモデルに関してはミランダに遅れること2年、57年5月にようやくアサヒ・ペンタックスを発売しました。そしてこれに自動絞り化を施すべく、K/S/S2と発展していました。3番手は東京光学で、57年12月に自動プリセット絞り(半自動絞り)のトプコンRを発売していました。58年には7月にミノルタがSR-2を出して参入し、59年5月にはキヤノンフレックスRが、同年6月にはニコンFが登場しました。このような中での35mm一眼レフ市場に参入したペトリは、当初から他社の大変高価な価格設定に比べて安価な路線での戦略を採り、既に自動絞りはどのメーカーも達成していた中、ペトリ・ペンタは手動プリセット絞りでしたが、そこそこ売れたようです。この後に、コニカFやヤシカ・ペンタマチック、マミヤ・プリズマットNP等が発売され、以降日本の一眼レフが世界を席巻することになりました。
こうして比較的早期に登場したペトリ・ペンタですが、シャッターダイアルはまだ一軸二段の回転式で、丁度59年頃に各メーカーとも一軸不回転式シャッターダイアルや完全自動絞りを投入していた頃だけに、スペック的には当初から寂しいものがありました。マウントは旭光学と同じくPマウントを採用して、レンズ名は「オリコール」でしたが、すぐに後述のモデルから独自のスピゴットマウントに変更して自動絞り化を果たしつつ、レンズ名も変更されました。その頃になってマウントをM42に戻しただけのPetri PENTA Jrが輸出向けに作られましたが、ネームプレートに「Jr」の文字はありませんでした。
ペトリ・ペンタは当初からシャッタースピードがB, 1/2〜1/500秒に設定されていて、これはこの系列のボディを用いる最後のモデルになるFTEまで変わることはありませんでした。ファインダーは全面マット式で、交換レンズは35mm・105mm・135mm・200mmが用意されていました。35mmと135mmは明るさの異なる2種が発売されていたようです。
ペトリ・ペンタは当初一般的なクイックリタンミラーのフォーカルプレーン式一眼レフと同じように、巻き上げ/チャージの回転軸から、カムを使って平板のレバーに伝達してミラーを駆動させる仕組みを採用したものの、すぐに後のペトリの各モデルで採用された一軸カムシャフト方式が創り出されます。これは巻き上げレバーのシャフトの最下部のギアが、フェースギアで90度に曲げられて一軸カムシャフトに動力伝達され、コイルスプリングが絞られて一旦その力がチャージされます。シャッターボタンを押してストッパーを解除すると、軸が一気に回転し、その先に配された複数のカムが回転することで、シャッター幕の制御とクイックリターンミラー、シンクロタイミングを連動させていました。車のエンジンのOHVのような働きをする訳です。この独創的なシステムはFT IIの後期に平板のカム/レバー方式に戻るまで、長らく使われることになりました。
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